
40年前の1970年大阪の千里の地で万国博覧会が開催されました。当時の日本人はまだ外国人とのお付き合いの経験があまりない時代でした。各国のパビリオンができ、多くの外国人がそのパビリオンで働く為大阪に集まりました。ところで明和産業株式会社はその前の東京オリンピックの時からチェコスロバキアのボヘミアガラスの日本輸入総代理店となっていました。当時の輸入金額は年間XX万ドル程度で、東京、大阪、名古屋、福岡の地域一番店であるデパートの特選売り場にほんの少しだけ店だしでき、高級品としての販売を開始していました。当時の大学卒の新入社員の初任給が3万円に満たない程度の頃に、このボヘミアガラスの8インチ程度の花瓶が2万円もする時代でした。外国為替の1ドルは固定レートの360円の時代です。当時入社早々で小生はガラスの輸入の仕事をしておりました、当時の輸入は外貨を申請して許可を受ける必要がありました、その為インポートライセンス、いわゆるILと言う書類が必要で、この許可は通産省で受けるわけです。
小生が窓口に行くと、いつも担当者から言われることがありました、「明和はチェコスロバキアからガラスを輸入するために貴重な外貨を使うのか?日本はもっと大事な機械などを輸入しなければならないんだ、ガラスなんか日本製でいいじゃないか」と。
そしてそのILで輸入したボヘミアガラスは大阪中ノ島の三菱倉庫で木箱から開梱され、ガラスを巻いている木のカンナカスのような巻物を取り除き、綺麗に洗って、木製の化粧ケースに収めて、倉庫に保管するわけです。デパートへの納品は両手にガラスをぶら下げてタクシーで行く、と言う事もありました。
そんな時代、1970年の大阪万博にチェコスロバキア政府がパビリオンを出展し、その中でボヘミアガラスを販売する、と言う情報がチェコ側から入りました。当時チェコ側の輸出の窓口はグラスエキスポート社(ガラス輸出公団)が一手に行なっていました。
そして、このパビリオンで販売するガラスはチェコスロバキア国内でチェコ万博委員会に販売し、明和産業は関係しない、と言う話でした。明和産業としては万博会場ではボヘミアガラスなど売れないだろう、と皆思っていました。その為、この提案はいい事だ、と言う見方をしていました。
ところが、万博会場で販売するガラス製品の売価はチェコ万博委員会が勝手に値段をつける、と言う連絡がきました。
そうです、これは大変なことになったわけです、明和産業が輸入して、検品後、日本製の化粧箱に入れ直し、在庫を抱えた上で、デパートで販売している同じ製品が万博会場では全く違う値段(とても安く)で販売される可能性が出てきてしまったわけです。
そこで明和産業からガラス輸出公団に対して、会場での販売価格を明和産業が決めた売価で売るよう、要請しました。しかし、公団側は「これはあくまでチェコ国内で万博委員会への国内商売であり、もし、明和が売価を決めるのであれば、その分は全て明和が輸入して欲しい、」と言う話になりました、そしてその金額はなんと当時の年間契約金額の倍であるYY万ドルにもなる、と言う事が分かりました。
当時の明和産業資材部の幹部は、とてもそんな金額を輸入できないだろう、その上万が一売れない場合は全てが明和の在庫になる恐れがある、と言う事で、なかなか結論が出せない、状況でありました。
しかし、そんな中、せっかく輸入総代理店の権利をとり、大々的に販売を開始し始めたところでもあり、万が一売れ残った場合は3年間の契約金額に組み入れてもらおう、と言う事で明和がYY万ドルを輸入して、5%の輸入手数料を乗せて、日本国内でチェコ万博委員会に自由円で販売する事になりました。
そして、輸入後デパートと同じ売価をつけてそれを万博会場のチェコスロバキアパビリオンのお土産ショップで販売する事になりました。仕入れは日本に来ていたチェコスロバキア万博委員会でした。彼らがこの金額で販売すれば莫大な利益が出ることになるのです。

無論販売についても明和が全面的にヘルプする、と言う事で、当時の関西地区の販売代理店であった京都のK忠社、H徳社、それと大阪の明和セールス大阪支店から販売員を出してもらい、ショップで販売する事になりました。
万博会場のショップはストック場所も狭い為、必要は数だけ細かく毎日納品する事になりそれが小生の主な仕事になりました。
さあ、全て準備は完了、万博会場で販売するボヘミアガラスは大阪のデパートで販売している製品と同じものですが、その梱包は全く違っており、デパートでは綺麗な木製の化粧箱に入れて販売されていますが万博会場ではチェコから輸送してきたままの、当時やっとチェコで供給開始されたダンボール製のプリントされた薄い紙箱でした。
これでデパートと同じ値段で売るとは、本当に売れるのだろうか?と販売を担当する者は皆感じておりました。
3月に万博はオープンになり、多くの入場者が会場に入るようになりました、でも入場者が先ず目指したのは「月の石」が展示されたアメリカ館、そしてもう一方の大国ソ連館でした、勿論日本政府館や三菱未来館なども長蛇の列で長い時間待たないと入館できませんでした。その一方チェコスロバキア館は閑古鳥が鳴くように静かで空いていました、勿論展示品はガラス作家のリベンスキー先生が製作した、「ガラスの川」と言うガラスの芸術作品だけ、後はチェコスロバキアの風景のパネル程度ですから、この「ガラスの川」なる作品も一般の人から見れば、単なる馬鹿でかいガラスの塊にしか見えません。
そんな中でチェコスロバキア館にはレストランも併設されており、ここは結構人気がありました、当時の日本人はまだ外食の経験が少なく、勿論外で歩きながら食べたり、テイクアウトのマックなど無い時代ですから、食事は必ず何処かのレストランで食べると言う事になるわけです。そこでチェコスロバキア館のレストランでのメニューはチェコを代表する国民食である、グラーシュとクネードリックの一品のみ、ところが、これが当時日本人には洋食のビーフシチューと玄米パンのように映り、大変美味しく好評でありました。そしてチェコスロバキア館には結構入館者が増えてきたのです。

しかしながら、ガラスのショップはそこそこお客様は入られるのですが購買には繋がらず、売上のできない日が続いておりました、そんな中で明和大阪支店の資材部では「これは大変なことになった、きっと膨大な在庫が後に残る事になるだろう」と上層部は危惧し始めていました。
そんな中4月に入ると会場には全国各地から農協の団体客が観光バスで訪れるようになりました。当時の日本の農村では、まだ外国人を身近に見たり、外国製品を見る機会もあまりありませんでした、勿論当時は、ボヘミアガラスはまだ地方では何所でも売られていませんでした。
チェコスロバキア館にもそんな農協の団体さんが多く入場するようになり、レストランも連日満員、ショップにも身動きが取れないように多くの方が入ってこられるようになりました。そして、お客様から「こりゃ凄い綺麗だな、キラキラして、やっぱ切子のガラスは綺麗だ、」と言うお褒めの言葉が聞かれるようになり、そのうち、「かあちゃん、
せっかく万博に来たんだから、家宝になるような物を買って帰るべえー」と言うや否や、我々販売スタッフに、「姉ちゃん、そこの綺麗な花瓶、何ぼだあ~?」「うん~3万円」「よしゃ、それにしよ、なあ、かあちゃん」「それくれや」と言う事で、我々は「ありがとうございます、それでは今お包みします」と言って、輸入時の紙製の箱に入れて、大きな紙袋に入れて、「はい、お待たせしました、3万円です」と手渡し、お客様は腹巻の中から千円札の札束を出して、支払をしてくれました。
独りのお客様がお買い上げになると、そのグループの方の多くが、「おれんちは、もっと高いやつを買うべえ~、ねえちゃん、もっと高いものくれや~」と言う事で5万円の花瓶が売れる、というような事で、皆、俺も俺も、と言う勢いで、何万円もする花瓶やプレート、グラスなどが飛ぶように売れて行きました。話はそれますが、このチェコ製の紙箱ですが、チェコの箱製作時の「のり」が臭いがきつく、丁度「馬糞」のような凄い臭いがするのです。ですから万博会場のストック置き場はなんと異様な臭いに包まれていました。しかしながら日本各地から来た農協の団体客には、この異様な臭いが、「チェコスロバキアもおらっちんとことおんなじ臭いがするべえ~」と言って、鼻を押し付け、このくさい臭いを喜んで嗅いで、それを持って帰ってくれたのです。こんな毎日ですから、会場のストックは毎日倉庫から補充をしておりました。
そして、益々入場者が増えて、夏場の夏休み時期になって、ついに万博用に輸入したYY万ドル分を完売してしまったのです。
そして、万博はまだ1ヶ月残し9月まで開催されているわけで、チェコ万博委員会からは明和の在庫品を売ってくれ、と言う事になりました。
そして当時は明和の在庫品はすべ木製の化粧箱に入れていたのですが、急遽、チェコの輸入の紙箱と同じプリントを起こし、大阪の紙箱業者に作ってもらい、わざわざ木箱から入れ替えて万博委員会に販売しました。しかし、日本製の紙箱はくさい臭いはしませんでした。
そんな事で9月の閉幕まで何とか商品を繋いで、大阪万博のチェコスロバキア館でのボヘミアガラスの販売は大成功の内に終了しました。
この売上により、明和産業はYY万ドル分の5%の利益、と在庫品から長期在庫となっていたアイテムの販売ができた、と言う事と、多くのお客様にボヘミアガラスの存在を知っていただいた、というわけです。
一方チェコ万博委員会は、このガラスショップの売上利益で会期中のパビリオンの総経費がまかなえ、更にお釣りが来る、と言う大成功を収めることになったのです。
そして、この大成功を記念に残したい、と言う要望で日本相撲協会にチェコスロバキア友好杯というボヘミアガラスのカップを贈呈する事にしたのです。
これがその後の、ボヘミアガラスが毎回の千秋楽にテレビで大々的に宣伝される、という大きな効果を発揮する事になったのです。
そして、大阪万博終了後、地方でもボヘミアガラスが販売されるようになったのです。
ボヘミアガラスが大阪万博以降全国のデパートで販売され、その後法人ギフトの王様となり、長い間明和産業資材部の代表商品となったわけです。その後の日本経済のバブルで、またボヘミアガラスが注目され、特別な商品が売れ、一時は明和産業の年間利益のZZ%を稼ぎ出すまでになりました。
しかしながら、日本はご存知のように、バブル崩壊後は苦悩の長い不況時代にはいてしまったのです。
でも、チェコのガラス産業には、手作りの良い商品がまだたくさんあります。丁寧に一つづつ販売をしていけばきっとまた良い道が開けると思います。