
ボヘミアの森でガラスをつくるキッカケとなったのは、はじめは領主の館内や町はずれの小工房で需要に応じて窓ガラス等をつくっていたが、火災の危険性や燃料入手の便宜上から、次第にチェコ領シレジア(現ドイツ領)の森林地帯に窯を移したことでした。シレジア、ボヘミアの森林地帯は、ガラスの原料となる良質の珪石や、ガラスを焼く坩堝用の耐火粘土、燃料の木材となる木が無尽蔵に産するという条件に恵まれていました。そこで産する製品はヨーロッパ市場で「森林ガラス(ヴァルト・グラス」と呼ばれていました。森林ガラスの特徴は、単純な型吹き成型によってつくられており、洗浄がまだ不充分であったため、不純物の混合によりほとんどが緑色をしていることです。

◆シレジア(現ドイツ領)シレジアは、現在のポーランド南西部からチェコ北東部(プロイセン王国時代の行政区画も含めればドイツ東部のごく一部も)に属する地域の歴史的名称です。支配者は様々に変化してきました。
◆ボヘミア地方ボヘミア (Bohemia) は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名です。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指しました。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド、南はオーストリアでした。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍しました。ヨハン・アモス・コメニウスの属した共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派が三十年戦争でこの地を追われ、二度とここに戻ってくることができなかったことはヨーロッパの精神史の中でよく知られた事件です。
この地方はまた牧畜が盛んで、牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちの服装の好みに入り込み、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装に伝わっていったといわれています。またこの地方の服飾が、ドイツなど西ヨーロッパに伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれました。
ラテン語・英語名のボヘミアは、古代にボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人に由来する。6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となりました。しかし、ドイツに接しているために歴史的にドイツ人も多く居住し、政治的・文化的にドイツとのつながりは深いです。7世紀にアヴァール人の侵攻を受けた後、9世紀頃にプシェミスル家のもとで公国を形成し、10世紀以降は神聖ローマ帝国に属して政治的に現在のドイツと結びついた。11世紀から12世紀にはボヘミア公は神聖ローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったドイツ人の傀儡として存在した。チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から中世から近世にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われました。
プシェミスル家断絶後の1310年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。神聖ローマ皇帝カール4世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル1世は、プラハに大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。15世紀にはプラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出すものの外圧により失敗するが、その過程でそれまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目されました。
1600年のヨーロッパ16世紀からはルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したオーストリアのハプスブルク家の支配を受け、1618年には白山の戦いでハプスブルク軍相手にたった半日で敗北した結果、チェコのスラヴ人貴族は完全に根絶され、ドイツ人貴族のみとなった(チェコ貴族の入れ替え)。三十年戦争後期にスウェーデンに占領されました。その後、ヴェストファーレン条約によって、ハプスブルク家に返還され、絶対王政下に置かれ、19世紀にはオーストリア帝国の一部となりました。19世紀前半にはチェコ人の民族運動が盛り上がって次第にドイツ人から自立しようとする動きが高まり、1918年に1004年以来914年ぶりにようやくドイツ人の支配から離れると、新たに独立したチェコスロバキアの中心地域となりました。

ボヘミアガラスとは、この地方で生産されるガラス器を指します。